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世界を救うDVD映画「流れる」(花柳界を垣間見る) [映画]

流れる
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ウィキペディアの解説は以下の5行である。

『流れる』(ながれる)は、1955年に出版された幸田文の小説。1954年にデビューした幸田の、作家としての名声を確立した傑作である。自身の体験を踏まえ、華やかな花柳界と零落する置屋の内実を描ききった作品。新潮社文学賞と日本芸術院賞を受賞した。

1956年、成瀬巳喜男監督によって映画化された。出演は田中絹代、山田五十鈴、栗島すみ子、杉村春子、岡田茉莉子など。


この中で、一番の主演は置屋のお母さん役を勤める山田五十鈴であろう。山田五十鈴の三味線の確かさ、歌の風流さは今聴いても見事である。花柳界の歴史と叙情、癒やしを垣間見せてくれる。これを聴くだけでも映画を観て良かったというものである。
江戸後期の流行歌謡の端唄などは日本文化としてもっと幅を広げても良いのではないでしょうか。
山田五十鈴は2000年、文化勲章受章している。



監督:成瀬巳喜男
脚本:田中澄江、井手俊郎
製作:藤本真澄
出演:田中絹代
   山田五十鈴
   高峰秀子
音楽:斎藤一郎
撮影:玉井正夫
編集:大井英史
配給:東宝
公開:1956年

世界を救うDVD映画「秋津温泉」(岡田茉莉子の世界) [映画]

<秋津温泉>
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孤立感を深める
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 死を決意した新子

岡田茉莉子は1933年の生まれだから、今からちょうど70年前の今日、天皇陛下の玉音放送はきける年齢だ。計算すれば12歳頃にあたる。

映画の中で演じている新子はもうちょっと年上だが(17歳)玉音放送をききながら「むずかしくてわからないわ」と言っている。100%わかった人はごく一握りだろう。しかし、戦争が終ったということは理解できたようだ。

この辺のことについて、後年の手記めいたもの(「女優岡田茉莉子」)を読むと、疎開先の新潟で空襲を体験されたそうだが、B29の機銃掃射の音に次の瞬間は自分も死ぬのだと思い死を覚悟されたようだ。また「私たちの世代は、あの忌まわしい戦争を背負わされ、生涯にわたって解き放たれることがないのだろう。」と語っている。
戦争は、たとえ生き残っても、癒やしがたい爪痕を残す。

終戦を知った後、どうしてあんなに泣いて涙が出るのだろうかと映画の中で川本周作(=長門裕之)が話していたが、実際どのような涙であったのか監督も明らかにしていない。
この情熱の持ち主が恋愛に正面から体当たりしていくのだから、その結果はプラスの方向に行ってもマイナスの方向に行ってもいかに波乱な展開があるのだろうと想像される。

周作は一目ぼれのように新子にひかれていく。しかし自分は喀血するほどの病気持ちだ。自分には望むべきでないと自身を制していた。が、新子の天真爛漫な生命の躍動のような女性にずるずると引き込まれていく。周作の心情も耐え難い葛藤がある。しかも新子の母親に避けられている。(肺病やみの男に娘をやろうとは思わない)

周作は暇さえあれば、たばこを吸う、酒を飲む、自分の体を考えればそんなことはできないはずだ。こんな自堕落な彼は意志が弱い証拠だ。
新子はこの青年を自分の力で直してみせると彼に入れ込んだ。こうして二人は互いに親密になっていく。

あるとき、二人が高原に遊んで、新子は周作の姿が見えなくなり真剣に「周作さん~、周作さん~」と呼んで探したことがあった。周作は寝転んで空を見ながら、新子の自分の名前が呼ばれるのを聴いて楽しんでいた。「俺は新子に愛されている、俺も新子を愛している!」と感じながら。

この時点では二人とも絵に描かれたような相思相愛の関係だった。周作の身体は次第に健康を取り戻し、心も前向きになり、生きることを謳歌したいと思うようになった。

彼は東京に出て作家の仕事を進めようとするが、それは容易に芽が出ない。そんなことで彼は人生にひがみをもつ性格がつのっていく。

そして別な女性と結婚、子を設ける。が、新子を忘れることができなく彼女のいる秋津温泉へ出向く。二人の結婚を反対していた新子の母親は既に他界していた。
新子が秋津荘の女将になっていた。ここで温泉旅館をやっていく決心をしたようだ。

彼が訪れると小娘のように喜び、彼を出迎え、帰っていくと魂が抜けたようになる。そんな繰り返しが何回か続いた。17歳の時彼と出会って、既に同じ17年間が過ぎた、しかし彼は新子のもとには落ち着かない。次第に新子はこんな人生を忌み嫌うようになっていった。

あるとき、周作が新子に会いに来て、泊まって帰るとき、新子は心中を持ちかける。彼は応じない、かつて周作が新子に心中を持ちかけた事があったが、周作はそんなことは一時の気の迷いだとさとすが、ならば私一人で死ぬと新子は思い詰める。まるで死に挑む(いどむ)かのようだ。

新子は死を覚悟した。
人間は自然の中に孤独に融け入らなければならないのか?
新子は愛人と別れ、人と別れ、自分自身からも離れ、自然の一部になろうと、
自然の懐に入って行った。

二人は路上でいったん別れたものの、異変に気が付いた周作は急いで駆け付けたが新子は手首を切って川に流されようとしていた。もっと積極的に新子に向かい合おうとすればよかったと後悔するが、もう遅い。なんとバカな男だと観ている方でやきもきする。新子の気持ちを理解できないのは男のクズだと思う。が、これが映画だ。

死を決意したときの新子の顔は美しすぎる。
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• 監督・脚本:吉田喜重
• 製作:白井昌夫
• 企画・衣裳:岡田茉莉子
• 撮影:成島東一郎
• 美術:浜田辰雄
• 編集:杉原よ志
• 音楽:林光
• 録音:吉田庄太郎
• 現像:東洋現像所
• 協力:津山市、奥津市

• 主な配役:
• 新子:岡田茉莉子
• 河本周作:長門裕之

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世界を救うDVD映画「今年の恋」(映画の中の岡田茉莉子) [映画]

今年の恋
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これは昭和37年に発表された木下恵介作品で
正月に観るとちょうどいいのかも知れない。

作品名も「今年の恋」とあり、正月早々希望の抱ける映画だ。

この時代はいやな戦争もすっかり終わり平和憲法の下、
人々は人生に潤いを持ち始めたのではないだろうか?

また、自然な日常生活の中に、人間味を帯びた穏やかな生活も
始まって、高度成長期の一つ手前の空気がうかがえる。

注目すべきは、若い岡田茉莉子のさわやかさだ。
田村正和も高校生で登場している。
眠狂四郎の幼い版だ。

この時代の映画は妙に人間味のあるのどかな映画が多い。
小津安二郎の映画の雰囲気にも似ている。


監督 :木下惠介
脚本 :木下惠介
製作 :月森仙之助
    木下惠介
出演者:岡田茉莉子
    吉田輝雄
    田村正和
音楽 :木下忠司
撮影 :楠田浩之
編集 :杉原よ志
製作 :松竹
公開 :1962年1月14日

世界を救うDVD映画「日本のいちばん長い日」昭和42年度版 [映画]

日本のいちばん長い日
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大宅壮一 編の「日本のいちばん長い日」が映画化されたのは、
1967年(昭和42年)、戦後22年たってからであった。
今から48年ほど前、東宝によって製作・配給された白黒の
日本映画である。この時の陸軍大臣は三船敏郎が扮した。


この映画は8月14日正午から、日本の進むべき道を政治家等が
決めた24時間の様子をまとめたものである。

簡単に言ってしまえば、ポツダム宣言を受諾して、終戦のため
天皇の発する公文書(=詔勅)をみんなで考えまとめ、それを
天皇が自ら読んでレコード盤にし、8月15日正午に玉音放送
として国民全体に聴かせようとしたことである。勿論
その流れはスムーズではなく、政治家の意見の相違、軍部の
葛藤などを時間に沿って描いてある。

映画の中で当時の若い将校達の切迫した状況が知れる。
例えば、井田中佐(=高橋悦史)が近衛師団長に戦争続行を説得するくだりで、

「現に今も飛行基地から敵の機動部隊を目指し特攻機は帰らぬ戦いを続けております。本土決戦も行わずこんな中途半端な形で戦争を止めるなら我々は前線で散った三百万以上の英霊をことごとく欺いていたことにならないでしょうか?  最後の一兵まで戦うならともかく天皇が止めると言われるからその命令を守って止める、聞こえはいいがこれは一種の責任逃れです。 国民はこの軍の態度を打算的でご都合主義のこの軍の態度をいったいどう思うでしょうか? 今こそ全ての軍人は死を賭して立つときであり、近衛師団はその中核となるべきです。 どうか閣下のご決意を。」

これは意気込みはよく解るが、このように考えたのは軍部上層部の一部の人間で、国民の多くは一日も早くこんな戦争は止めたかったのだろう。平和で安心してできる生活が一番だ。


最後の所でこの太平洋戦争で被った数字をまとめている。
1)兵士として参加した日本人=1000万人
  (日本人男子の1/4)
2)戦死者         =200万人
3)一般国民の死者     =100万人

今私たちはこのようなおびただしい同胞の血と涙と汗で
あがなった平和を確かめ、日本と日本人の上に再びこのような
日が訪れないことを願うのみであると結んでいる。

戦争を知らないで生まれた私たちは、貴い犠牲の上に今の 平和があることを自覚して生きよということである。

監督 :岡本喜八
脚本 :橋本忍
原作 :大宅壮一
製作 :藤本真澄
    田中友幸
出演者:三船敏郎
    加山雄三
    黒沢年男
    佐藤允
    中丸忠雄
音楽 :佐藤勝
撮影 :村井博
編集 :黒岩義民
公開 :1967年8月3日
配役 :
内閣
鈴木貫太郎男爵(内閣総理大臣) - 笠智衆
東郷茂徳(外務大臣) - 宮口精二
米内光政(海軍大臣) - 山村聰
阿南惟幾(陸軍大臣) - 三船敏郎
岡田忠彦(厚生大臣) - 小杉義男
下村宏(情報局総裁) - 志村喬
石黒忠篤(農商務大臣) - 香川良介
広瀬豊作(大蔵大臣) - 北沢彪
松阪広政(司法大臣) - 村上冬樹
豊田貞次郎(軍需大臣) - 飯田覚三
大臣 - 山田圭介
大臣 - 田中志幸

官邸
迫水久常(内閣書記官長) - 加藤武
木原通雄(内閣嘱託) - 川辺久造
佐藤朝生(内閣官房総務課長) - 北村和夫
佐野小門太(内閣理事官) - 上田忠好
鈴木一(総理秘書官) - 笠徹
小林海軍軍医 - 武内亨
首相官邸警護の巡査 - 小川安三

外務省
松本俊一(外務次官) - 戸浦六宏
大江晃(電信課長) - 堤康久

宮内省
石渡荘太郎(宮内大臣) - 竜岡晋
加藤進(総務局長) - 神山繁
筧素彦(庶務課長) - 浜村純
佐野恵作(総務課員) - 佐田豊

情報局
川本信正(情報局総裁秘書官) - 江原達怡

陸軍関係者[編集]

陸軍省
若松只一中将(陸軍次官) - 小瀬格
吉積正雄中将(軍務局長) - 大友伸※[4]
荒尾興功大佐(軍事課長) - 玉川伊佐男
井田正孝中佐(軍務課員) - 高橋悦史
椎崎二郎中佐(軍事課員) - 中丸忠雄
竹下正彦中佐(軍事課員) - 井上孝雄
畑中健二少佐(軍事課員) - 黒沢年男
小林四男治中佐(陸軍大臣副官) - 田中浩

参謀本部
梅津美治郎大将(参謀総長) - 吉頂寺晃

第一総軍
杉山元元帥(司令官) - 岩谷壮

第二総軍
畑俊六元帥(司令官) - 今福正雄
白石通教中佐(参謀兼司令官副官) - 勝部演之

東部軍
田中静壱大将(司令官) - 石山健二郎
高嶋辰彦少将(参謀長) - 森幹太
不破博大佐(高級参謀) - 土屋嘉男
稲留勝彦大佐(参謀) - 宮部昭夫
板垣徹中佐(参謀) - 伊吹徹
神野敏夫少佐(参謀) - 関田裕
塚本清少佐(司令官副官) - 滝恵一

近衛師団
森赳中将(第一師団長) - 島田正吾
水谷一生大佐(参謀長) - 若宮忠三郎
渡辺多粮大佐(歩兵第一連隊長) - 田島義文
芳賀豊次郎大佐(歩兵第二連隊長) - 藤田進
古賀秀正少佐(参謀) - 佐藤允
石原貞吉少佐(参謀) - 久保明
大隊長 - 久野征四郎
宮城衛兵司令所の伍長 - 山本廉
徳川侍従を殴る師団兵 - 荒木保夫
師団兵 - 桐野洋雄
師団兵 - 中山豊

児玉基地(陸海混成第27飛行集団)
野中俊雄大佐(飛行団長) - 伊藤雄之助
児玉基地副長 - 長谷川弘
少年飛行兵 - 大沢健三郎

横浜警備隊
佐々木武雄大尉(隊長) - 天本英世

航空士官学校
黒田大尉 - 中谷一郎

憲兵隊
NHK愛宕山スタジオ警備の憲兵中尉 - 井川比佐志


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